こちらは東日本大震災復興支援・チャリティ小説同人誌『文芸あねもね』公式ブログです。
最新情報や執筆者&内容紹介など随時更新しています。
「女による女のためのR-18文学賞」過去受賞者(+α)で
「少しでも東日本大震災被災者の力になれれば」と話し合った結果、同人誌をつくることになりました。
2011年7月15日より2012年2月24日まで、電子書籍サイト・パブーにて電子書籍版を販売、
その後紙の書籍として新潮文庫に入る運びとなりました。
現在、朗読プロジェクト「文芸あねもねR」も進行中!
【執筆者一覧】
彩瀬まる・豊島ミホ・蛭田亜紗子・三日月拓・南綾子・宮木あや子
山内マリコ・山本文緒・柚木麻子・吉川トリコ(五十音順/敬称略)
■イラストレーション/さやか ■デザイン/山口由美子
※参加者の詳細は「プロフィール欄」をお読みください。
※この企画の成り立ちについては「はじめに」をお読みください。
豊島ミホ→吉川トリコ→と大物が続き、
最後は何故だか私め柚木麻子でしめさせていただきます。
夕べマリコさんのデビューをカラオケでお祝いしましたが、
彼女の歌う「ロキシー」は米倉さんもびっくりですよ☆
とにかく、おめでとう、おめでとう、おめでとう!!
********
まだ寒い季節、山内マリコと悪夢のようなカルト映画(私は頑張って最後まで観たけど、マリコは割と早い段階で寝ていた)を観た帰り、私達は宮益坂のタパス&タパスに入った。マリコの処女作の出版が、夏頃に決まりそうだと言う。しかし、肝心のタイトルが思いつかないらしい。
「地方でくすぶっている女の子達の話なの。彼女達の鬱屈や夢や悲しみをひとことでぴたりと言い当てるような、インパクトがあって新しくてキュートで、ぐっとくる題名をつけたい」
私が真っ先にひらめいたのは、彼女との共通の愛読書だった。
「アリス・ホフマンの『ローカル・ガールズ』! マリコの作品に一番しっくりくるのは、あのタイトルだよなあ」
「そうなんだよ。私、ローカルガール小説を書きたい。そういうのを求めてる子はいっぱいいる! でも、その名はすでにあるからだめ! すでにあるものじゃだめなの!」
マリコは「サウダ−ヂ」という映画を見たばかりで、その魅力を大層熱く語った。
「地方で生きる若者を描いた作品は今、キテる。いっそ『ロードサイド』という言葉を入れたいくらい。でも、それじゃ『サイタマノラッパー』なんだよな〜」
タイトル会議は、TSUTAYA渋谷店の洋画レンタルコーナーに場所を移し、なにかキャッチーな単語はないか、と二人で目を皿のようにして棚の間をうろうろしたが、結局何も決められないまま私達は別れた。
数ヶ月後、山内マリコの処女作のタイトルを聞いた時、私は息を呑むことになる。
「ここは退屈迎えに来て」
居酒屋で、ルミネで、ケーキ屋で、向かいに座る彼女が身振り手振り、苦しそうにもどかしそうに、言葉にしようしようとしていたことが、これ以上ないほど鮮やかに簡潔に表現されている。まったく新しい、誰も見聞きしたことのない、彼女にふさわしい彼女の香りのする言葉で。このタイトルだけで、作者に絶対の信頼を置く読者が、もう何万人といるだろう。ああ、マリコは心もとない女の子たちの叫びやめまいと真摯に向き合い、一人で言葉を探し続け、身体からえぐるようにしてこの本を生み出したんだなあ……。その勇気と才能に、我が身を省みてひそかに落ち込んだ。
出版まで時間はかかったが、彼女はあきらめず、トンネルの出口を探し続けた。「誰も読んだことがない新しい物語を書きたい。だから、何度も何度も書き直してる」という、いつかの言葉を思い出す。どこに光を見出したのか。何を支えにしたのか。その答えは、作品を読んでわかった。
地方都市を舞台にした八つの短編は、誰しも身に覚えのある切なさと心細さが、簡潔で誠実な言葉で語られている。東京育ちの私だが、だだっぴろいロードサイドをとぼとぼ歩くような経験を、心のどこかでしていることにはっと気付かされた。トリックスターである椎名の輝きは、加齢とともに失われていく。「手の届かない憧憬の結晶体」は地べたにひきずりおろされていく。椎名とすれ違う女の子達の夢や憧れもまたしかりだ。しかし、そこにおかしみと悲しみはあるけれど、決して絶望はない。のっぺりした町並みで繰り返される退屈な毎日のそこかしこに、作者は光り輝く瞬間をちりばめている。ヒロイン達を救うのは男でも仕事でもなく、おのおのが心に描いた「ここに居ないもう一人の自分」だ。山内マリコは、夢見ることだけはしぶとくやめなかったのだと思う。「もう一人の自分」の存在を大切に守り抜いたのだと思う。
目利きの読み手達が、早くもこの作品に強い反応を示している。でも、この本をもっとも必要としているのは、作品に登場するような、ファーストフードやゲームセンターで時間をつぶしている若者なんじゃないだろうかと思う。映画館や書店に足を運ぶ習慣なんてない、携帯電話と狭い人間関係がすべて、楽しいことが向こうからやってこないか、と常に欲しているような女の子や男の子。彼らが山内マリコの名を知るまでにはもうちょっと時間がかかる。でも、そんなに先のことではない。
なぜなら、新しい時代が、山内マリコのデビューとともにやってきたのだ。彼女が心に描いたかもしれない「もう一人の自分」と本人が、この一冊で完璧に重なった。もう山内マリコはどこにでも行けるし、なんでも出来る。車なんかなくても。
私はなんだか、これからすごいことが起きる気がしている。
********
以上、柚木麻子による『ここは退屈迎えに来て』レビューでした。
みなさん、山内マリコをどうぞよろしくお願いします!
(文責・柚木麻子)
前回、伝説の豊島パイセンによる完璧で熱い山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』レビューをお届けしましたが、今回は第二弾! ということで、わたくし吉川トリコがいかせていただきます!
*******
90年代の地方都市で暮らし、ヤンキー&ファンシー文化に染まるクラスメイトとはどうしても相いれず、「ROCKIN'ON」や「Olive」をすがるようにぼろぼろになるまで読み込んで「ここではないどこか」に思いを馳せる十代をすごしてきた――なんて、ぜんぜん特別なことじゃない。「都会に行けば、都会に行きさえすればなんとかなる」と救いのように、ときには呪いのようにくりかえして、息苦しい田舎の生活をいつかやってくる未来に先送り先送りしてなんとか生き長らえてきた――なんて、ぜんぜんまったく特別じゃなくて、たぶん日本にそんな青春をすごした女の子、わたしのほかに100万人ぐらいいる(いや、もっとかもしれない)。90年代にかぎらず、いまこうしているあいだも、どこかの地方都市でめんどくさい自意識を抱えてしんどい思いをしながら生きてる女の子がいるかもしれない(いや、絶対いる)。
わたしが高校生のころ「CUTiE」では岡崎京子の『リバーズ・エッジ』が連載されていて、チョーかっこいい! って、ビリビリヒリヒリしながらとにかく夢中で毎号読んでた。あー、あたしも同級生と死体探しに行きてえ、ドラッグきめて川原でセックスしまくりてえ、「平坦な戦場」とやらをクールにドライに生きのびてえぜ、とかバカなこと考えてる高校生だった。
それと同時に、わたしにはこのような語るべきなにかがない、と絶望してもいた。わたしのいるこの場所には語るべきなにかなんてない、と。
その絶望は、絶望と呼ぶにはあまりにもぬるくて中途半端だった。そのことがさらにわたしを傷つけてもいた。
山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』は、語るべきなにかを持たない女の子たちが、語るべきなにかの存在しない土地で生きる姿をせつせつと書いている。
「これは、私のための本だ!」
と、わたしは思ったし、おそらくそんなふうに思う女の子(男の子も)は日本に100万人ぐらいいる(いや、もっとかもしれない)。
ここに書かれているのは、かつてわたしを傷つけたぬるい絶望であったり、寂寥であったり、孤独であったりする。ぬるい郷愁であったり、憧憬であったりする。
翻訳文体のような、どこか突き放したかんじの文章は、なんともいえないおかしみがあって、クールで、とびきりしゃれている。といって、気取っているわけではなくて、たとえば筆字のポエムが壁中に貼られたラーメン屋とか、女の子たちのやくたいもない会話の数々とか、小ネタのいちいちがおかしくて声をあげて笑ってしまうのに、
「少しずつ近づいて来る電車を待ちながら、世界にふたりっきりだと、あたしは思った」
(「十六歳はセックスの齢」)
こういう、ふいの一文に、自分でも知覚していなかった涙腺をぎゅっとしぼられて、気づくと両目がびしょびしょに濡れていたりする。
ここで語られる「世界にふたりっきり」なのは、尾崎豊的世界観で語られる行き場を失った男女というわけではもちろんなく、チンコを恐怖しながら処女喪失計画を立てる冴えない女子高生ふたりというのがなんともおかしくてとほほでいとおしい。ほかにも「田舎の気の抜けた風景の中、ハリウッドセレブ気取りの格好をした」妙齢女二人組とか!(「やがて哀しき女の子」) とんでもなく笑いを誘うのに、イタタタタタってかんじなのに、なんかかわいい! なんか泣ける!(それこそ岡崎京子の漫画みたい!)
そう、この小説は、椎名という一人の男の子が年を重ね、すこしずつ褪色していく過程を遠巻きに描く連作短編の形式をとっているけれど、十代、二十代、三十代、と変容していく女の子たちの友情の物語でもあるのだ。
大人になったいまだってわたしはつねに思ってる。「ここは退屈迎えに来て」って思ってる。この退屈からすくってくれるのは男なんかじゃなくて、わたしに似た、それでいてぜんぜん似ていないとくべつな女の子だ。それこそこの本の著者である山内マリコのような!
この本を読んでいるあいだじゅう、わたしは仲のいい女友だちとおしゃべりしてるときの、あのばかみたいに楽しくて、楽しすぎるあまり泣きたくなるような瞬間のことを思い出していた。平坦で、退屈で、ぬるい戦場を生きのびるために必要なのは、死体やドラッグや刺激的ななにかではなく、ああいう瞬間なんじゃないかと、すっかり大人になったわたしにこの小説は教えてくれる。
この本は、語るべきなにかを持ってない、とかつてぬるーく絶望していたわたしをやさしく慰撫してくれる。それと同時に、死体もドラッグも刺激的なものはなんにも出てこない(セックスはいっぱい出てくる)のに、当時あこがれてやまなかった最高にヒップでクールな「ここではないどこか」のカルチャーそのものにもなっている、奇跡のような一冊なのだ。
前回の記事で豊島さんが「新しいものに鼻のきく女の子たち、男の子たちに、この小説を見つけて欲しい」と書いていたけれど、もしマリコがR-18文学賞出身でなくとも、わたしと豊島さんは山内マリコという作家を見つけ出し、「あれ読んだ?」「やっばいよねえ」と語り合っていただろうという気がする。R-18文学賞の最終選考に残った「十六歳はセックスの齡」を読んだときも、「読んだ?」「やばくね?」とごそごそ話していた、ばかりでなく、「この人、リト○モアとか○藝とかに出したほうがよかったんじゃない?」とそのころからすでにマリコの行先を心配していた。
(既存のエンタメの枠にはまらない、これまでに読んだことないような新しいもの、という意味で、「純文学」というカテゴリーをそのときは使っていたのだけれど、そのカテゴライズすら山内マリコという作家には邪魔になるかもしれない、といまはちょっと思っている。出版界のPerfumeになれよマリコ!!)。
――なんて、いつかの島田紳助のような論調(「松本と話しとった」的なあれ)で最後を締めてしまうのは気が引けるんだけど・・・。
言いたかったのは「身内だから褒めるんじゃない」ってこと、ただそれだけです。身内じゃなくても、山内マリコはわたしにとってとくべつな作家になっていた、ってことです。
そうして、日本に100万人ぐらい、山内マリコという作家を愛さずにいられない女の子&男の子がいるはずなんです! おねがい見つけて! いますぐ早く!
********
以上、吉川トリコによる『ここは退屈迎えに来て』レビューでした。
最後にもう一押し、強めにマリコを押したいと騒ぐのが近々登場する予定です!
乞うご期待!
(文責:吉川トリコ)